新型コロナウイルスによる肺炎で急逝した志村けんさん(享年70)未だに死を惜しむ声がありますね。
そんな中、志村さんにとって
“どうしても忘れられない”女性タレントがいたと一部で話題になっています。
志村けんさんの忘れられない女性は誰なのか?
またどんな関係だったのかを調べてみました。
志村けんさんの忘れられない女性
生涯独身を貫いた志村さんには、互いに信頼し合っていた相手がいたそうです。
「そのお相手は、志村さんより先にお亡くなりになった飯島愛さんですよ」
明かしたのは某テレビ局の関係者。
飯島愛さんとはどんな方なのか。
知らない人も多いかもしれないので、紹介したいと思います。
- 飯島さんはセクシー女優出身でタレントとしても活躍。
- 自叙伝「プラトニック・セックス」は大ベストセラーとなった。
- 数多くのレギュラー番組を持ち、当時の若い女性たちの憧れの的でした。
飯島愛さんプロフィール
飯島 愛(いいじま あい)
別名義:大久保 松恵(本名)
愛称:愛珍(あいちん)
生年月日:1972年10月31日
没年月日:2008年12月17日
没年齢:36歳(数え37)
出身地:東京都江東区
死没地:東京都渋谷区
血液型:A型
公称サイズ(時期不明)
身長 / 体重:163 cm / 43 kg
スリーサイズ:86 – 56 – 85 cm
デビュー:1992年
ジャンル:タレント、AV女優
デビュー以前
東京都江東区の亀戸で生まれ育つ。教育熱心で躾に厳しい両親に育てられ、小学校の頃は成績が良くおとなしい子であった。中学1年の頃に精神的な支えでもあった祖父が亡くなったことで精神のバランスを保てなくなり、それが原因で両親からのプレッシャーに耐え切れなくなって非行に走るように。
中学在学中から不良仲間と毎晩ディスコ等で夜遊びに耽るようになり、遊ぶお金の為に万引きやカツアゲを繰り返す生活をしていた。
『プラトニック・セックス』
高校には入学したものの全く通学しておらず、すぐに中退する。
デビューから芸能界引退まで
AVデビュー後、『とんねるずのみなさんのおかげです』のスタッフととんねるずの木梨憲武が彼女のファンであったことから、同番組にハプニングゲストとして出演したことがテレビ番組初出演となった。
1992年2月から深夜番組『ギルガメッシュないと』(テレビ東京系)にレギュラー出演し、スカートをめくりTバックを見せるのが話題となって「Tバックの女王」と呼ばれた。
1993年「ナイショ DE アイ!アイ!」で歌手デビュー。オリコン87位。このCDには飯島が実際に着用したパンティを細かく裁断した生地が同梱された。
1994年頃、AV女優を引退
テレビ番組への出演等によってタレントとしての知名度を得たことで、引退後は完全にタレント業へと転身を果たした。
2000年、半自伝的な小説『プラトニック・セックス』でリンチ被害、AV出演や性病感染、中絶手術、整形手術していたこと等をカミングアウトしベストセラーに。
映画化やテレビドラマ化もされ、以来作家活動も行っていた。「週刊朝日」にコラム『飯島愛の錦糸町風印税生活』を執筆。また性感染症予防の啓蒙活動でも知られる。
2005年にブログを始める。
同年、ネット配信番組に連動した株取引に関するブログも、短期間公開された。2006年11月11日、個人事務所の経理担当の人間から数千万円もの横領被害に遭ったことをブログで告白した。
芸能界引退
2007年3月3日「飯島が3月末で芸能界を引退する」という報道が流れ、飯島の所属事務所もこの内容をFAX回答で認めた。
飯島は同4日に生出演した『サンデージャポン』でこの件について「いつかは引退する」と発言するも時期については明言しなかった。
しかし翌週(3月11日)の放送で飯島は3月末をもって引退することを自ら発表した。その後腎臓病(腎盂炎)であることも報道され、それによると
「症状が予想以上に重く、仕事を続ける意欲を完全に失っているという。」
と理由付けされている。
『サンデージャポン』最後の出演は2007年3月25日だったが、ちょうど番組放送直前の午前9時42分頃に能登半島地震が発生。
TBSは地震の状況を報道したため、飯島最後の『サンデージャポン』の放送時間はわずか15分となってしまい、飯島本人が出演した場面は3分(予告編のみ)しかなかった。飯島はこのことをブログで
「大変な事態です。人命と私の引退は比べるに値しない。今はそっと、被害が最小限に収まるように見守りましょう」
と綴っている。
翌日のニッポン放送の生放送ラジオ番組『テリー伊藤のってけラジオ』において、飯島と『サンデージャポン』で共演しているテリー伊藤が「飯島愛ちゃんの分は収録しました」と話し、翌週の『サンデージャポン』で放送すると明言した。
その後、テリー伊藤の言うとおり、4月1日の『サンデージャポン』のラスト10分で、事前に収録された「飯島愛 引退ファイナルカウントダウン」と題されたVTRが放送され、飯島は週刊誌で報じられている「藤田晋とITビジネスを行うという説」や「ニューヨークへ移住するという説」を否定し、「(今後は)医療関係の仕事に就きたいが、今から勉強しても間に合わない。でも、(医療と性質の似ている)カウンセリング関係の仕事をしたい」「歌や(お笑いの)ライブなど、板の上(舞台)に立つ仕事ができないと、芸能人としては限界がある。あと、病気で休んでいる時に、私の代わりになる若手はいっぱいいると思った」と語り、「精子バンクでシングルマザー説」については「試みようとしたことはある」と述べた。
そしてVTRの最後では、高橋ジョージが飯島のために「ロード」を熱唱し、飯島はみんなへの感謝のメッセージを贈った。
2007年3月31日「目標や夢が見い出せず、芸能界で生き残っていくことは不可能」として所属事務所から正式に引退が発表された。
自室で孤独死
飯島愛さんが自室で遺体で発見されたのは2008年のクリスマスイブ。
自宅を訪ねた親戚によって発見されましたが、その後、死後1週間ほど経っていることが判明しました。警察は死因を肺炎と発表しています。
しかし、飯島さんがまだ36歳と若かったこと、生前、若いころからなかなか波乱万丈な生活を送っていたことからさまざまな憶測が飛び交い、自殺説や他殺説も出ていました。
死因が本当に肺炎だったのか、という点はもちろんのこと、交友関係が広いとされていた飯島さんの発見が1週間もされなかったことも奇妙とされている所以です。
今でも愛されている飯島愛さん
飯島は引退後も「飯島愛」としてブログ『飯島愛のポルノ・ホスピタル』を続け、飯島の没後も連日ファンのコメントが書き込まれ続けており、故人を偲ぶ宝物のような存在になっていたが、2015年9月18日に放送された『中居正広のキンスマスペシャル』(TBS)で、ブログを管理している両親の意志によりブログを閉鎖することが発表され、存命であれば43歳の誕生日となる同年10月31日をもってブログは閉鎖された。
最終日になっても書き込みは続いており、翌11月1日午前0時時点での最終的なコメント数は約72700件に達した。
志村けんさんと飯島愛さんの関係
「志村さんと飯島さんは麻布十番の有名レストランでよく“デート”を楽しんでいたようです。AV出身の飯島さんは、志村さんに芸能界での悩みを相談していた。彼女にとって、公私にわたる良き相談相手になっていたそうですよ」
飯島さんは、東京都内の高級マンションで2008年に36歳で亡くなったが、いまだ早すぎる死を悼む声も多い。
ただ、志村さんにとって飯島さんが忘れられない女性となったのには別の理由があるという。
「飯島さんは生前、女性用コンドームを売るネット事業をスタートしようとしていたそうなんです。このビジネスを応援していたのが、志村さんだったというんです」
このネット事業には、ある実業家のスポンサーがいた。
「志村さんに近い人物だったそうです。飯島さんは、当初あてにしていた自分の知り合いの若手IT社長に資金援助を断られ、最後に頼ったのが志村さんだったとか。そこで、志村さんが自分の支援者である実業家に飯島さんのスポンサーになってくれるようにと、紹介したんだそうです」
飯島さんは志村さんのことを人前で「けんちゃん!」と親しそうに呼んでいた。
「志村さんは、飯島さんとのこうした関係もあって、亡くなったことを無念に思っていたそうです」
志村けん公式ブログに
飯島愛さんが亡くなった年に志村けんさんはブログで
飯島愛ちゃん残念です
誕生日にら必ず来て笑顔を振りまいてたのに
と綴っていました。
志村さんにとって“忘れられない女性”飯島愛さん。
公私にわたり良き相談相手だったようです。
志村さんと飯島さんは天国でどんな再会をしているんでしょうか。
改めてお二人のご冥福をお祈りします。
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